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院長プロフィール
- マッサージ・指圧師 第103273号
- 鍼(はり)師 第103656号
- 灸(きゅう)師 第103627号
名前 | 萩原信治 |
出身地 | 愛知県一宮市 |
すきな物 | 本(なんでも、マンガもね) 映画(「キッド」もいいね) 車(伊・独車いいな。MTが欲しい) コーヒー(熱いのがいい) 紅茶(レディグレイは美味ですね) アルコール(なんでも) 緑茶(抹茶もいいな) スゥイーツ(ケーキ、粒あんこ系) クルミ、アーモンド 料理番組(見るだけ) |
夢 | バイクでニュージーランドを一周。見れなかったオーロラをフィンランドで見る。海辺に住む。小説を出版。ゆっくりと焚火ができる場所と時間が欲しい!など・・・。 |
これまでの道のり
父の代から開業40年(2014年現在)。幼少のころから父に手ほどきを受けていました。
父も私も厚生労働大臣による国家資格の免許を持つ施術師です。
私が施術師になったのは、先代の父の影響がかなり強いです。
というか、父が施術師ではなかったら、多分、まったく違う人生を歩んでいたと思います。
しかし、父がただ単に普通の施術師であったなら、もしかしたら、私は施術師を職として選ばなかったかもしれません。
施術師の私からみても、父は施術師として「天才」だと思います。そして、施術師は父にとって「天職」だったと思います。
幼少のころから、普通に父の施術を受け、また、父に言われて父を施術したりしました。それで痛かったところが楽になっても、子供だから、それが普通だと思っていました。
しかし、自分が施術する側になり、改めて父の理論、手技のすごさには、「天才」の言葉がふさわしい気がします。
父の手技は、「職人技」、「神技」の言葉がぴったりのような気がします。
また、人柄的にも患者さんにすごく慕われていました。
そういう父が施術師だったから、自分も施術師になったと思います。
そして、父がいたからこそ、施術師になれたと思います。
右の写真は、まだ、父と一緒の施術院にいた頃に撮影したものです。
残念なことに、私に息子が生まれた年に急逝しました。
私自身が父親になり、父に師としてではなく、父親として、息子との接し方、子育てをどんなふうに感じていたかを、いろいろと聞きたかったなあと思っています。
国家資格を習得する為の専門学校を卒業した後は、父のもとで一緒に施術にあたりました。7年ほどした後、父の施術院から独立して、隣の市で施術院を立ち上げました。
きっかけは、父の「自分ひとりでやってみないか?」でした。
そして、「お前なら、自分ひとりの力でやっていける。それだけの技術は十分ある」といってくれました。
屋号こそ、同じ「萩施術所」で分院のような形でしたが、中身は独立採算制です。
患者さんが来なければ、アウトです。
しかし、不思議と不安はありませんでした。
父の一言も効いていたのでしょう。
師である父が、「力」はあると言ってくれたのです。
おかげさまで、アウトになることもなく現在まで順調にやってこれました。
そして、順調にやってこれましたが、父が亡くなってから、私のなかで、ひとつの思いが生まれてきました。
それは、思いあがりに聞こえるかもしれませんが、父を「越えたい」との思いです。
これは、どの父息子(おやこ)にも共通の思いだと思います。
男性の方は、よく分かる感情だとおもいますが、父親は息子に対して「いつかは自分を越えて欲しい」と思い、息子は「父親を越えたい」と思うものだと思います。
まして、同じ職業なら、です。
しかし、
身体の見方、その見方のもととなる考え方(理論)や技術は父が独自で見出し考えだしたものです。
考えてみれば、「萩施術所」の技術と理論の「創始者」でもあるのです。
2代目としては、その理論と技術を受け継いだ上で、更に発展させなければ、初代を越えたことになりません。
おこがましい言い方ですが、初代と同じくらいであっては、越えたことにはならないのです。それは、飲食店をはじめ芸事の世界でも同じことを言われますし、先代を知るお客さんや御贔屓(ごひいき)さん、そして患者さん自身もそう感じるのです。それが技を受け継ぐものの宿命です。
私にとって、幸いしたことは、
だということです。
終わりがないのです。ここまでいけば終わりではなく、また、その先が見えてくるのです。完成はないということです。引退したとき、または一生を終えたときが、ある意味終点です。
私はまだ人生が続き、父は終点にいるので、私にはまだ時間があります。
そして、私にとって、更に幸運なことがありました。
父の施術院にいた頃に、更なる技術を自分自身で考案し、技として使いだしていました。
初めは、父の技術を補う(おぎなう)技として使っていました。
いかに患者さんに負荷をかけずに、歪んだ骨を動かすか。
緊張して身体に力が入ってしまう患者さん、
幼児をはじめとする子供の患者さん、
そして骨そしょう症など刺激をなるべく掛けないようにしなければならないお歳をめした患者さんのために、患者さんに負荷をあたえずに骨を動かす技をみつけだそうとしていて、考えだし作り出したものです。
その新しい技を、父の施術院にいるときに編み出せたことが、後々、独立してから、父の理論と技の上に新しい施術体系と技を積み上げることができるようになったのでした。
そして、この技術は、父にも真似できない技術であったのです。
たぶん、この技術を使える方は、世界でもほとんどいないと思います。
また、その技術を使った新しい施術体系(顔面頭部骨格が、骨盤をはじめ、自律神経系に影響をあたえる)は、世界初だと思います。
簡単に分かりやすく言えば、「顎を整えると、骨盤が一瞬で整い、全身の筋肉の緊張が緩む」という、新しい施術体系と技術を作り出せたことです。
この新しい施術体系と技術を作り出せたことで、父が理論と技術を作りだしたように、私も新しいものを作りだせたと思います。
同じように新しい施術体系を作り出せたことで、父に限りなく近づけたと胸を張って言えます。
でも、すべては父がいたからこそです。
父には、師としてだけでなく、父親としても、感謝と尊敬の念を抱いています。
まだまだ、父の人間性や懐の大きさには足元にも及ばないですし、父親としても、父が私に接してくれたように、私は息子たちに接しているのかな?と思う日々です。
ただ、私も息子たちに何かを感じさせるような父親になりたいと思っています。
なんだか、父と息子の話になってしまいました(笑)
父と一緒に仕事ができた7年間は私のなかで、宝ものです。